大会長挨拶
医学の進歩は、日本人の暮らしと健康を大幅に改善し、人々は高齢となり長生きできるようになりました。しかし、この進歩は死をより受け入れ難くすることを除いて、本質的に死の認識を変えていません。死は自然現象、物事の正常な秩序の一部と見做されますが、死は単なる生命の終わりではなく、存在の終わり、特別で置き換えが不可能な比類のない個人の喪失です。
多くの人にとって、死が意味を持つかどうかは、宗教的、精神的、または哲学的見解による生命に与えられた感性があるか、ないかに依存します。死の捉え方は、例えば生命がすべての身体的、精神的能力を完全に持ち合わせていなければ意味がないかどうか、あるいはむしろそれが含まれるより大きな全体の一部であるかどうかによって異なります。
しかし、医学は生命を終わらせる、あるいは生命を脅かす、深刻に衰弱させるかもしれない病気に関連しています。生命の奪い合いで、生命を十分に生存可能な状態に保ち、死を避けようとすることは医学の課題です。
ベテラン女優の樹木希林さんが2018年9月15日に亡くなられたことは記憶に新しいと思います。彼女は2004年に乳がんと診断され、2013年に乳がんが全身転移したことを公表、「わたしはわたしの前にあることを受け入れ、流れに任せることを選びます」とコメントしました。彼女の死後、彼女の夫である内田裕也さんは彼女を「見事な女性でした」と評しました。彼女は自らを生きて、自らとして死んだのです。
自分自身の死の意識は、死の客観的な反映ではなく、実在の経験であり、自分自身の死を超えているという特徴があります。 V・ジャンケルビッチはそれを「一人称の死」の認識と呼んでいます。
誰も死に場所や死ぬ日を知っているわけではないので、私たちはそれを回避できると思うかもしれません。死ぬ日が近づいても、それはまだ不確実なままです。実際、死に直面しているのは死刑囚だけです。
しかしながら、私の死は私個人のものであり、避けられないものです。死は理論的に可能性としてしか理解できません。死を克服する最善の方法は、予期していることです。M・ハイデガーはそのことを「死の先駆的決意性」と表現し、人は自分自身が死ぬことを認め、受け入れ、自分自身の人生を生きるべきだと説きました。
日本臨床死生学会学術集会は、死と死ぬことに関する対話を再設計し、この重要な課題に臨床の場で新しいアプローチを見つけるための取り組みです。
記念すべき第25回大会で、私は臨床の場における“一人称の死”をメインテーマとして取り上げたいと考えています。わたしがわたしを死ぬにはどうすればよいのでしょうか?逆に言えば、わたしがわたしを生きるにはどうすればよいのでしょうか?それこそが今回の大会のテーマです。
第25回日本臨床死生学会年次大会大会長
大井賢一(認定NPO法人がんサポートコミュニティー事務局長)