第25回日本臨床死生学会

第25回日本臨床死生学会

会プログラム

9月21日(土)ヤングリサーチャープログラム

サクセションプラン

  量的研究のススメ(60分)
座長:
講師 井上 永介(聖マリアンナ医科大学臨床統計学教授)
  質的研究のススメ(60分)
座長:
講師 山岸 暁美(慶應義塾大学医学部衛生学公衆衛生学教室)

9月22日(日)わたしを死ぬ

ワークショップ 死にゆく人をささえる、わたしの準備をととのえる
座長:
講師 藤田 一照(曹洞宗国際センター)

死を避ける時代から人生をデザインする時代へ

古代エジプトの歴代のファラオ以上に不朽不滅について考えた人はいなかったでしょう。中国の歴代の皇帝たちも不老長寿という夢を追い求め、命の万能薬を探し求めました。16世紀のスペインの探検家フアン・ポンセ・デ・レオンがカリブ海諸国を訪れたのは若返りの泉を探し求めてのことだったと言われています。彼らにとって死は恐ろしく避けたいものでした。

自分の愛していた人が死ぬと、それを受け入れがたく感じます。若さの盛りの時には、自分が死ぬことなどないと思っているものです。わたしたちはそうした幻想にできる限り長くしがみつきます。しかし、わたしたちには必ず死が訪れます。

今日、医療の進歩によって今や死は避けるものではなく、選ぶものになろうとしています。死はいたずらに恐れるものではなく、人生をデザインするうえでの重要な要素と考えるべきかもしれません。

基調講演1 未定
座長:未定
講師 吉澤 明孝(要町ホームケアクリニック院長)
基調講演2 生と死のグラデーション(仮題)
座長:船木 祝(札幌医科大学)
講師 広井 良典(京都大学教授)
シンポジウム1 わたしを死ぬ
座長:大井 賢一(がんサポートコミュニティー)
医療の立場
哲学の立場
仏教の立場
キリスト教の立場
吉澤 明孝(要町ホームケアクリニック院長)
広井 良典(京都大学教授)
藤田 一照(曹洞宗国際センター)
未定

9月23日(月)わたしを生きる

ノンフィクション作家の柳田邦男氏は、自ら命を絶った25歳の息子の脳死から腎提供に同意した遺族として、フランスの哲学者ジャンケレヴィッチの「死の人称性」という概念をもとに、医療者に対し、遺族視点にたった上で支援を行うことの重要性を「2.5人称の視点」という言葉で表現しました。

柳田氏は、支援を行う上で「もし自分が」と考えるのは1人称の視点、「もし自分の家族や大切な人が」と考えるのは2人称の視点、専門的な知識だけに基づいて判断するのは3人称の視点と。そして1人称、2人称の視点をいれつつ、専門家として冷静に判断するのが「2.5人称の視点」であるとしています。

遺族ケアに必要な「2.5人称の視点」とは

特別講演1
(遺族ケア)
わたしを生きたい、遺族外来(仮題)
座長:未定
講師 大西 秀樹(埼玉医科大学国際医療センター教授)

「死にたい」と言うことでしか「生きたい」気持ちを伝えられない人がいます。自殺の多くは「自発的な死」「選択された死」ではなく、「追い込まれた死」ではないでしょうか。「死にたい」と「生きたい」との狭間で揺れる気持ちを受け止め、「わたしを生きたい」をささえるためにわたしたちに何ができるかについて考える機会にしたいと考えています。

特別講演2
(自殺予防)
わたしを生きたい
―「死にたい」と「生きたい」との狭間でできること(仮題)
座長:未定
講師 張 賢徳
(帝京大学医学部附属溝口病院教授/日本自殺予防学会理事長)

わたしを生きる

介護が必要になっても、認知症になっても、そして、がんになっても、自分の意思で行動し、誰かのために役立つことが「生きる力」になります。ときに社会で、その人の得意なことを「役割」として担っていただくこともあるでしょう。また超高齢社会をして病を得ずとも年齢を重ねてご自分でできることが少なくなりますが、「自分で考え、選べる」生活を送っていくためにどう生きていけばよいのでしょうか。

限られた時間を生きる

シンポジウム2 わたしを生きる
座長:小川朝生(国立がん研究センター東病院)
認知症 未定
 
ALS
がん
川口 有美子(ALS/MNDサポートセンターさくら会副理事長)
未定

人生には、いろいろな苦難がつきものです。

中でも大きな試練は、愛し、愛された人との別離でしょう。愛する人を失くした時、「死別の悲しみ」に、どう向き合ったらいいのでしょうか。

特別対談 妻亡きあと、わたしを生きる
  垣添 忠生×遠田 恵子(フリーアナウンサー)

航空・鉄道事故調査委員会の委員であった黒田勲氏は生前、「学識経験者(専門家)というのは、『有』学識『無』経験者なんだよね。その事故を経験していない。だから常に事故調査や再発防止策の立案に、経験をどう役立てることができるかを考えなければならない」と語っていました。まさに「死生学」は誰もが経験する「死」を扱いながら。